しあわせ
Last Update 2008/3/7
しあわせにきていくためにやりたいこと、やるべきこと
いつのまにやら10th Anniversary(笑)
 

 しあわせに生きてゆきたい。ほとんどの人はそう願っているはずである。しかし、現代の日本社会において本当にしあわせに生きている人はどれくらいいるのだろう?
 私もしあわせになりたいと思い、いろいろなことを考えてきた。まだまだ短い人生ではあるが、その中でも主張は二転三転している。ただ、現在はある程度全般的に、またそんなに矛盾もなくしあわせになるための答えが見えてきたと思う。
 このページは、現代日本においてしあわせに生きていく方法を模索する、私の個人的な考察ノートである。いくつか項目は作ってあるが、まだ文章化してないものも多い。また、項目が増える可能性も十分ある。適当なときに書いて、順次アップしてゆきたい。ちなみに途中段階でおかしな文章や構成のものもある。ご了承を。
 


アイデンティティ 2005/12/6改訂
 アイデンティティとは、自分の発言・行動に一貫性を持たせ、自由な個人として生きていくために必要な精神の拠り所である。 つまり、哲学、思想、宗教などの主義主張を自分の中に取り入れ、具現化し、それを体現するわけである。 最近はアイデンティティの喪失とか、アイデンティティを形成できない若者とかメディアを通して様々な話を聞くが、私の考えではしあわせになるためにはアイデンティティの確立は絶対に必要である。 羊のような労働者として資本家に搾取されても、他国の犠牲の上に物質的な豊かさを享受できているうちはアイデンティティなど必要ないであろう。むしろ使役者にとってアイデンティティを持たない人間の方が好都合であると言える。 しかし、持続可能かつ自己矛盾をおこさない社会を築いていくためには、一人一人が明確なアイデンティティを持たないことには何も始まらない。
 では、アイデンティティ形成の具体的な条項を考えてみよう。
 まずは政治思想である。簡単な区分はいわゆるミギヒダリであるが、様々なことを考えれば考えるほど、どちらにもつくことが出来ないということは、多くの人が経験しているであろう。ただ、中道、つまりどちらにも針が振れない状態であれば、それはそれでいいのかもしれないが、私の場合は事柄によりミギにヒダリに針は大きく振れてしまうのである。そのため、日本においては特定の政党を支持することが非常に困難になってくる。
 何故日本の政党はこんなにもフレキシビリティに欠ける主張しか出来ないのだろう?何故こんなにも支持者の職業・境遇をストレートに反映する主張しか出来ないのだろう?本当によりよい社会を形成していくためには、誰もが何かを犠牲にしなければならないのは当然である。逆説的だが、政党が支持基盤の求めるものを全て飲み込まざるを得ない社会というものは、国民一人一人があまりに多くの犠牲を被っているからだということが言えるのではないだろうか。
 あまり横道にそれてもいけないので話を元に戻すが、自分のアイデンティティの確立における政治思想については、単純なミギヒダリや既存政党の支持で片づけてはいけない。もっと細かい事項について、一つずつ丹念に解答を導き出してゆくべきである。
 では、哲学はどうだろう。もちろん高名な哲学者の言葉を信じるのは勝手だが、やはり多くの考え方を自分の中で噛み砕いてゆく中で、独自の哲学は生まれるものである。人間は考えている間が人間なのである。
 宗教については、別項で触れているが、生きていく上での非常に包括的な規範を与えてくれるものであり、信じることが出来るならば、しあわせになるためにこれほど強力な助けはない。もちろんアイデンティティもこれ一つで確立可能である。
 ひとつひとつの条項を具体的に見ていくと、このページ自体が一つのアイデンティティになっていることに気づいた。ということは、私のアイデンティティは以下の文章そのものである。あなたは如何?
 


仕事 1999/7
 エコノミカルアニマルである日本人は、とにかくよく働く。まずはそのよく働くメカニズムを3つの切り口から分析してみる。まず一つ目は社会構造から。日本社会というものは、同質性を基にした人間関係により成り立っているため、集団内部における人間関係は基本的に全人格的な信頼に基づいたものとなっている。たとえば、企業であれば、ほとんどの国(欧米諸国は特に)では利潤を生み出すことに貢献できる能力に信頼をおいているものであるが、日本社会においては、その人の生活全てに信頼をおいているのである。つまり、就業時間はもちろんのこと、就業時間後や休日においても、自分と同じ行動をし、似通った考え方をしている人間を信頼するのである。ゆえに、利潤を生み出すこと以外の「仕事」量が非常に多くなってくる。
 次に、日本人の精神構造を分析してみよう。よく言われる「日本人は働くことが好きなのだ」という言葉は、本当なのだろうか?私はこれは精神構造に基づいているとは思わない。単なるパブロフの犬である。幼い頃からやりたくもないことを強要され、一定の評価が出れば嬉しいという事をくり返せば、非常に自己中心的な仕事好きが生まれるのは当然であろう。日本では学校教育と家庭の中で、仕事好きの労働者が再生産され続けているのだ。また、資源に恵まれない、タダでモノが手に入らない国だからこそ、労働すればモノが手に入るが、労働しなければ何も手に入らないという図式が根底に流れているのである。
 しかし最も大きな問題は、実は身体構造にあるのだ。身体と言っても脳内生理なのであるが、日本人は脳内で生産される快感物質ドーパミンの分泌量が異様に多いらしい。これは、具体的に言うと苦しいことや我慢をしたあとに非常にいい気分になれるという事である。日本人が身体的(これは脳以外のことね)には決して優れていないにも関わらず、マラソンが得意なのもそのためなのだ。ゆえに、意識していなければ、勝手に仕事をがんばってしまうということになる。自己満足的な達成感だけでは決してしあわせにはなれないのに、快感におぼれて仕事をがんばり続けてしまうのである。
 では、どうやったら仕事をしあわせに結び付けることができるのか。
 まずは徹底的な実力の強化であろう。そのために参考になることをいくつか挙げてみたい。
 昔、中谷彰広が何かの本で、本当にクリエイティブに仕事を行うためには徹夜などもってのほかだと書いていた。早寝早起きの規則正しいリズムが良い仕事を行うための第一歩であると。裏返せば、不規則な生活の中では実力は発揮できないということである。
 また、広島大学の堀忠雄教授(生理心理学)は、昼寝をすべきだとも説いている。南欧のシエスタやアラブ諸国の昼寝の習慣は、暑いからだけではなく、生理学的に眠くなる時間だからであるらしい。教授は2時から20分間の昼寝が仕事の効率も上げ、体にもいいと言う。明治以来効率優先に富国を進めてきた日本社会においては、昼寝がきちんと取れる企業などほとんどないであろう。建前上の効率は、実際には非効率なのであるが。それどころか規則正しい生活さえもまともに出来ない人も多いだろう。しかし、しあわせに生きていくためには睡眠は重要な要素であることは間違いない。なんとしてでも昼寝する権利を勝ち取るのだ。
 それから、仕事の快楽に溺れないようにしよう。しあわせからは遠ざかるだけである。
 


住宅 1999
 住居、それは人間が生活をする上で欠くことのできないものである。自然環境や文化の相違により、世界中に様々な住居が存在し、また歴史的な変遷も見られる。
 では、現在の日本の住環境を振り返ってみるとどうだろう。
 まず、歴史的な変遷の中で、日本の自然環境・文化に適合した伝統的な住宅はどんどん減っているといえる。
 日本の伝統的な住宅といえば、木造で土壁で畳があり瓦があるアレである。山間部の農業地帯や、島嶼部などの漁村という一次産業主体の地域では、まだまだ新築される場合もあるが、都市部ではほとんど見られなくなってしまった。都市や郊外地域で伝統的な住宅を新築する人は、日本の伝統文化に何らかの形で関わる仕事を行っているか、いわゆる旧華族や士族の財閥関係者や代々の政治家くらいであろう。
 それから、首都東京はおろか、地方都市のどこでも都市化が進展しているという事実がある。
 つまり、仕事場は都市中心部にあり、住宅は郊外の住宅団地で、道路も公共交通機関も通勤ラッシュになっているわけである。これはまず、都市中心部になんでもかんでも集中すること自体が問題なのであり、実際に最近はSOHOや企業の自宅勤務などが増えてきている。また、住宅団地というものも、様々な問題をはらんでいる。イギリスのニュータウンなどと異なり、日本の住宅団地には雇用を創出するシステムがない。つまり、働く場所がその内部あるいは近辺にないのだ。また、資金さえあれば基本的に誰でも住宅を購入できるため、近隣の住人がほとんど30代から40代という、似通った世代のみで構成されてしまう。また、子どもにとって住むところしかない環境は、社会の仕組みを肌で経験する機会を奪う。また、社会的立場の似通った家庭の友達しかいないと、同質化意識が強くなり、いじめや不登校、あるいは非行の問題にもつながりやすい。
 郊外の通勤ラッシュを避けるため、比較的都市部にあるマンションを購入する人も増えている。その結果マンション産業の進展がめざましく、大手ディベロッパーによるマンションの林立は勢いを増すばかりである。
 現状分析の次は、具体的な住居の選択方法を考えてみる。大まかにはまず次の二点について考える必要があろう。
■借家か持ち家か
 現代の日本社会において、住宅は一生の買い物であるのは確かである。ゆえに、本当に自分が求める住宅と、社会の中に置かれた自分の立場とのギリギリの折衝の中で、ヒトは住宅を購入する。ゆえに、若いうちから住宅についてあれこれ考えている、そしてある程度以上の社会的地位と財産を持つ者でなければ、10代20代で住宅は購入できないであろう。だから、若いうちは、結婚して家庭を築いた者であっても、大抵の場合は借家に住む。あるいは転勤の多い仕事に就いている人や、純粋に住む場所を変えるのが好きな人も借家に住んでいるだろう。
 しかし、人間が人間らしく生きていく上で最も重要かつ基本となる住居というものは、きちんと確保しておくのが当然である。問題は、この重大事業を決断するには、自分の人生のあらゆる要素について答えが必要だということである。しかし、ある程度の年齢になり資金繰りと老後のプランが見えただけで住宅を購入する人間が後を絶たないのが、現代日本である。
 住宅は人生の基本なのだ。
老後を過ごすための場所ではない。
 人生の答えを出すことを先送りにして、借家住まいを続けるのはやめるべきである。がんばってできるだけ早く答えを見つけるべきではないだろうか。
 借家住まい=若輩者、持ち家住まい=一人前なのである。
■一軒家か集合住宅か
 一軒家は土地も建物も自分の所有であり、自由に売買できるし、よく言われる所の「一国一城の主」になれるわけである。できれば一軒家を購入したいと考える人が多いのは確かである。しかし、自分の所有する土地の中では自由だと言っても、近所づきあいを全く行わないわけにはいかないし、騒音や振動だって自由に出していいわけではない。中途半端に自由を得るくらいなら、近所づきあいも周りへの配慮も絶対に必要なマンションに住む方が、自分も気をつけるし、周りも気をつけてくれるので、逆に過ごしやすいのではないだろうか。また、インフラの整備や防犯も規模の拡大と共にしっかりしたものになるし、何より一軒家に比較して立地条件が格段に良くなる。他にもいくつか理由はあるが、私の結論としては、マンションを購入する方がしあわせに近くなると言うことである。
 しかし、マンションを購入するにあたっては数々のチェックポイントがある。
 まずは駐車場の確保である。一軒につき2台以上、できれば立体ではなく平地が望ましい。また、管理はディベロッパーや、系列の管理会社に任せるのではなく、住民からなる理事会が行わなければ、透明で公正な管理は望めない。修繕積立金はかなり多めに設定しなければ、5年後10年後の修繕がまともに行えない。
 しかし、それ以前にもっと大きな問題がある。
 ディベロッパーが土地を購入したり売り出しを行い、ゼネコンが建物を建設するというシステム自体が問題なのだ。
 一軒家なら、ある程度資金があれば1から10まで自らの手で行えるものが、マンションでは必要資金の額が大きすぎるためできない。ゆえに、ディベロッパーという「企業」が介在し、資金の一部をかすめていき、それどころか騙したりするのである。
 そこで、私が今考えていることは、マンション建設NPOの設立である。例えば、一軒家を建てたい人が10人集まれば、同じ資金で個人で家を建てるより立地条件がよく、頑丈で、広くて、高齢者などの配慮も行き届いた、暮らしやすい理想の住宅の建設が可能なはずである。建築家や不動産屋、その他関連する専門家、あるいは資材の選択から建設業者まできちんと選ぶことのできるシステムの構築をNPOで行うのである。
2005/11補足
 2年程前から、真剣に建築(特に建築計画)を勉強し、コーポラティブハウス、テラスハウス、戸建てなど様々なプランを考えてみた。また、数人の建築家からも話を聞き、徐々に自分の理想が見えてきたようにも思う。結論はまだ見えないが、最も望ましいのはコーポラティブ方式で集合住宅を建てることであり、難しければ戸建てとなるが、どちらにしろ「自分にとって必要十分な設備と広さ」を明確にし、 RC造の構造でできるだけ安く建てることまでは行き着いた。とりあえず一休みである。
 


宗教 1999
 神なんていない。もし本当にいるのであれば、五感で分かるように私の前に出てきてほしい。
 科学が万能だとは思わないが、私たちは科学の力により私たちが生きている世界の情報を知ることが出来た。そして、問題点もやるべき事も分かった。少なくとも今現在において(未来のことは知らないが)神が我々の人生に大きな影響を及ぼすことはあり得ない。
 但し、宗教が歴史をつくってきたし、現代社会もまた宗教を基本に成り立っていることは、日本以外の国においては大抵はっきりと感じることが出来るのは確かである。
■唯物論と観念論■
 唯物論とは五感で感じとることの出来る「物体」について、存在しているとする論理である。それに対し観念論とは「存在すると思うもの」を存在すると考える論理である。現在の我々の生活において、「存在すると思うもの」を売ったり、お金を払って買ったりすることなどあるのだろうか?逆に言うと、「存在すると思うもの」を全て排除したら、我々の生活が成り立たないのだろうか?そんなことはないはずである。しかし、前出の売ったり買ったりすることはまさに宗教団体(宗教法人)のことを指しており、実際には多く存在している。
■神をしあわせに生きるために利用するのはよいと思う■
 私は神の存在を否定しているが、本当に神の存在を信じている人がしあわせに生きていることに異論はない。問題は神の存在を信じていないにも関わらず、その「存在すると思うもの」を売っている人間がいることである。 また、多くの日本人は日常の生活の中で神を信じる作業や神を「思うこと」を行っていないにも関わらず、冠婚葬祭時や盆正月には神道や仏教的な行動をする。そして、キリストの生誕日もイベント化している。このパラドックスは簡単に分析すると、経済発展第一で文化活動に時間やエネルギーを費やせなかった戦後50年の間に、経済活動という視点から宗教を利用(生きていくためにではあるが)した人々に対し、多くの人々はひとつひとつきちんと判断を下せないまま流され続けた結果であると言えるだろう。つまり宗教は、神を信じることではなく、経済活動の一つに成り下がっているのである。ゆえに日本において、神のために戦うイスラム教徒のごとき人々は右翼だけであり、よき社会人であり、同時に宗教的な信念を持った人物はほとんど見受けられない。 例えば、欧米に多いキリスト教徒は日曜日の礼拝を欠かさないし、宗教行事には積極的に参加し、楽しんでいる。その上でビジネスに勤しみ富と名声を築いている。また、インド人の80%以上を占めるヒンドゥー教徒は、憲法において身分制度が禁止されているにも関わらず、カースト制を遵守し、しあわせに生きている。
 まだ科学など存在しない遥か昔に成立した宗教を信じるものは、大抵の場合誰も否定しないし、本人はしあわせになれるものである。
 神を信じるか、しからずんば宗教的な行事や活動を行うべからず。
私は神を否定しているが。
 


 1999
 日本製の車は世界一の性能であるとよく言われる。それは正しいと思う。
 しかしである、ぶつかったら大破する構造で乗員の安全を守り、プラスチックパーツを多用し、結果として軽量なため燃費も運動性能もよい車が本当によい車なのか?
 もちろん、日本は資源を持たない技術立国であり、限られた制約の中で最大限の性能を求める姿勢は評価できる。ただそれは、あくまで生産者を評価するということであり、生産された車を評価し、購入すべきだということにはつながらない。
 自分の車は自分のアイデンティティを表す大きな鏡である。もっと良く考えてみて欲しい。
 私が車に求めるものは、安全性、環境配慮、居住性、積載性能、視界の広さ、走破性、デザイン、そして歴史と伝統である。
 安全性については、頑丈にするのと壊れやすくするのと二通りあるが、人間が怪我などしない事故でも大破するほど壊れやすいのはどうかと思う。人間が全くケガしない程度の衝突、たとえばバックしていて電柱にぶつけたなどであるが、それだけで修理代が40万かかるなんて正気の沙汰ではない。
 環境配慮はリユース・リサイクル率が高いということであるが、法的規制が甘い日本において、わざわざコストをかけてまで環境配慮を高くする日本企業などあるはず無い。反対に積極的なのはドイツである。なんたって、配慮が足りないと車を作れないのだから。
 居住性に関しては、人間工学に基づいたシートづくりを行っていることが重要である。最近は日本車のシートも良くなってきたが、どうしてもう少し大きくできないのだろうか?また、上下のスライドが少ないし、大衆車においては(あ、この言葉は日本においては適切じゃないね。町工場の社長がベンツのSクラスに乗る国だから。)スライド自体が無いんだよね。
 積載性能に関しては、車は人とモノを運ぶ道具であるという観点から、最低限5名乗車可能で、180cmクラスの長尺モノが入ることが必要と考えられる。スキーだって、キャリアに載せるなんて粗末な扱いをするのは良くないでしょ。アメリカの車などは畳大のものが入るほどのスペースを持った車が多いのは、父親=DIYの達人というお国柄かなあ。
 また、最近はRVや1BOXが多くなり、セダンタイプの視線では先の情報が入りにくくなっている。ゆえに、複数車線の一般道路を走行する際、先の情報を読み取りながら車線変更をすることが容易ではない。そういう理由から、自分が乗るクルマも視線が高いことが必要であると考えられる。そういえば、シート高900mm前後のオフロードバイクというのは、視線が170cm程度になる。私はこの視線で長い間走ってきたので、とてもじゃないが地を這うような視線のクルマには恐くて乗れない。人間の感覚において最も情報を伝えてくれるものは視覚である。視界の広さは重要なのだ。
 走破性というと、荒れた未舗装路を走る能力を指すように聞こえるかもしれないが、そんなに極端なものではない。普段の生活において大きな犠牲を払う必要のないレベルの能力である。工事現場の未舗装部分や段差、大雪の日の坂道、あるいは狭い路地を走ることが出来ることも「走破」という言葉でくくれるはずである。橋の入り口で急に減速したり、踏切をものすごくゆっくり渡ったり、道路から脇の店に入るときもすごく慎重に入っていく車を見ていると、一体何を考えているのか分からなくなりません?
 デザインは乗る人のセンスを体現する。服装や他の所持品と同様、クルマもしかりである。なぜ日本車は美しいと思えるデザインのクルマがこんなにも少ないのだろうか?さすが文化途上国、自動車産業という「工業的理数系的」分野には美しさの入る余地はまだまだあまり無いのだろう。その点、イタリアやフランスの車は美しいものが多い。ただし、これは作る側だけの問題ではない。カー用品店に溢れている奇妙なホイールやカーオーディオやアクセサリー類の数々を見ていると、この国の消費者が求めているものがデザインされていることが良く分かる。
 最後は歴史と伝統であるが、これは一般的にはレースという舞台において創られる。メーカーだけではない。具体的な車種毎に歴史と伝統が、そして伝説が必要なのである。また、公的な機関での使用(王侯貴族や軍隊など)なども信頼性の裏付けとみて良いだろう。それから、頻繁にモデルチェンジするということは、ユーザーの事を無視した利益追求か、自信のなさの表れでしかない。
 さて、理想のクルマが見えてきましたか?
 


モノ 1999
 私の少年期は1980年代である。私がモノについて考えるようになったきっかけは、少年時代に買ってもらった1台の自転車である。
 その自転車のライトは横二眼であり、手元のレバーでリトラクトする代物であった。変速は後輪側のみ5段変速で、シートの前方にAT車そっくりなレバーがついていた。私と同世代の方なら記憶している方も多いであろう。あの自転車である。中学生になっても通学に使用している者はいたが、その頃は既に恥ずかしい自転車という認識が一般的であった。
 つまり、その自転車のデザインは一過性の流行的なものであり、しかもオトナは対象としないコドモ向けの商品であったのだ。
■流行■ 
 これ程までに浪費を助長させる要因はない。いわゆる「流行遅れ」は、事実上そのモノが使用できない状態になることである。まだ使用できるにも関わらず、新たに買い換えねばならないのである。これは、モノを作る側売る側としては、新たな需要を生み出す魔法として使われ続けていることであり、クリエイターにとっても、自分が社会的な地位や名誉、そして富を得るために大きな後ろ盾となるシステムである。しかし、消費者の側で考えてみれば、事情は異なる。お金があればどんどん買い換えればいいじゃないかという論理は、物質的な豊かさでしかしあわせになれない人々の論理であり、「経済のみ社会日本」の(現在はいい方向に向かっているが)中心論理である。また、無駄な消費は同時に資源と時間の浪費であり、さらなる消費を求めて物価が高くなり続け、また人々の社会的分業の促進につながり、一人一人の生活力、ひいては生活の余裕の減退につながり、結果としてしあわせからは遠くなる。
■購買対象■
 最初の自転車の話に戻るが、私が小学生だった頃、米軍基地の中に住んでいるアメリカ人の小学生は、現在大人が乗っても十分にオシャレでかっこいいと思われるようなマウンテンバイクに乗っていた。ここで日本社会の問題点がひとつ浮かび上がってくるのではないだろうか。つまり、日本では大人が全くオシャレだとかかっこいいとか思わないようなデザインのモノが、子供向けに多く作られているのである。これはメディア(TV番組など)や教育にも関わってくる問題であろう。つまり、何がオシャレなのか、何が美しいのかということを、世代間の相違ではなく、もっと根元的な部分でしっかりと子どもに教えることが出来ていないがために、子どもはその美的感覚を生産者やメディアの適当な「子供向け」という発想に汚染されているのである。もっといえば、世代間や時代よる美的感覚の変化も、本当はそれらに関しての教育がきちんと行われていないがために起こる現象なのかもしれない。但し、全てのモノを大人の感覚でデザインせよとは言いがたい。子どもは小さなサイズの大人ではないのである。ゆえに、「大人の鑑賞に耐えうる、子供向けのデザイン」というものについて、もっと各分野の研究・努力が必要ではないかと私は思っている。
しあわせ

 私のモノの選び方を言っておこう。私は基本的にはいわゆる定番モノ、あるいはトラディショナルなモノを購入し、出来るだけ無駄な消費は避けることにしている。また、古今東西の芸術・デザインから「自分にとっての」美しさというものをはっきりと規定し、その美的感覚に沿ったモノを選択すれば、社会状況に流されることなく、いつまでも愛着を持ち続けられるのである。また、機能性については、これもまた「自分にとって」どれだけの機能があればいいのかを的確に判断することが重要だと考えている。モノを購入する際には、(サービスも基本的には同じである)これらの点を総合して選択すれば良いのである。こうすることにより、あまり考えないでモノを購入した場合に比べて、購入時にも何倍もの満足感を得ることが出来るし、その後も所有欲を長く満たしてくれる。また、省資源にも廃棄物の抑制にも貢献し、自己嫌悪にも罪悪感にもさいなまれることもない。
 


コンピュータ 1999
 「あなたはコンピュータで何をしているのですか?」
 一度この問いに真面目に答えてみてほしい。
 では、私の回答をここで発表しよう。
■メールのやりとり、およびインターネットのページから情報を得る■
 スタンドアローンで使用するわけではなく、インターネットを通じて情報をやりとりする場合には、コンピュータ本体の性能ではなく、回線の通信速度が問題になる。つまり、本体の処理速度にはまだまだ余裕があるにも関わらず、データ転送が追いつかないのである。快適な通信のためにはISDN回線の使用か専用線の敷設が必要である。
2006改訂
 100Mbps超の光ケーブルが速いのは確かだけど、動画をDLするのが楽しくて仕方がない「消費者」でなければCATV回線で十分だと思う。2Mbpsくらいね。ADSLは無理をしている技術なのであまり使いたくない。
■学校の授業で使用するプリントおよびテストの作成■
 スキャナーで画像を取り込み、補正をかける。あるいははじめから図解を作成する。あるいは取り込んだ画像に何らかの付け加えを行う。これら素材作成はハードとしてはスキャナー、ソフトとしてはレタッチ、ドロー、ペイント系のアプリケーションが必要である。レタッチ、ペイントに関しては高速なCPU、十分なメモリを載せたマシンほど、その速さの恩恵に預かることが出来るであろう。(例えば処理に30秒かかっていた時間が3秒になると、大きな違いが実感できる。素材の数が増えればなおさら・・・)素材が完成すると、DTPアプリケーションに割り付けし、必要な文字を入れる。当然フォントは和文・欧文共、様々な種類を用意することが望ましい。後はプリントアウトであるが、最近のプリンターは黒一色ならばどれでも問題ないレベルとなっている。具体的な解像度としては180dpiで十分である。
2006改訂
2005年度からはプリントはIllustratorで作成中。5年ぶりの学校現場は完全にLANが整備されているし、事務用のPostScriptではないレーザープリンタも結構綺麗に出るので、画像は解像度300dpiで使用。
■プロジェクターに出力するプレゼン資料の作成■
 プリントと違いカラーを使用するので処理速度が必要に思われるが、実はモニター表示の解像度は72dpiと低いので、素材のデータ量は案外小さい。ゆえにプリントを作成しているマシンのレベルでより快適な作業が可能である。素材作成はプリント作成と同様で、その後はプレゼン用のアプリケーションで組み立てる。
2006改訂
プロジェクターを使用する素材はDVDにするのがベスト。別に「動画」がなくても、DVDのメニュー自体でプレゼンが可能だから。小型のDVDプレーヤーの方がノートパソコンよりも使い勝手がいい。
■学校の成績処理■
 表計算なんて、処理速度は本来必要ない。昔のマシンで0.5秒かかっていた計算が0.05秒になったらどれだけ得したと言うのでしょうか?
■WebPage作成■
 WebPageの作成も素材作成は、プレゼン資料と同様に比較的楽な作業である。htmlなどのプログラムはエディターで書けばいいし、後はFTPアプリケーションでサーバーにアップするだけである。
■ノートとして使用■
 エディターに書くだけ。どんなマシンでも快適である。間違っても鈍重なワープロソフトを使ってはいけない。

 もう一度聞きます。
「コンピュータで何するの?」
 DTP、3Dなどのデザイン、建築設計、DTM、DV編集、医療機関、あるいは理数系の研究機関などでは高性能なマシンが必要とされるでしょう。あなたがもしそれら以外の用途にコンピュータを使用しているのであれば、本来最新機種なんて必要ありません。
 では、次の質問です。
 「こんなことが出来たらなあ」と思ったことはありませんか?
 問題はそこです。自分がイメージする「出来たらいいこと」を可能とするアプリケーションを探してみて下さい。
 あるいは周りにいる人にどうすればいいか聞いてみて下さい。誰かが解決方法を知っているはず。
 誰も知らないなら自分で調べましょう、勉強しましょう。
 そろそろコンピュータをOA機器としてしか使わない人間から脱皮しましょう。
 コンピュータはクリエイティブな道具として使用しましょう。
 何が問題なのか気づきましょう。
 


趣味 1999
 日本では小さな頃から学校で自己紹介文を書くことが多い。そしてそこには大抵の場合、「趣味」という欄がある。また、履歴書においても趣味の欄があるものは多い。そして、その欄にたどり着いたとき、なかなか先に進めなくなる人が多いのも事実であろう。そして、読書とか、音楽鑑賞とか、当たり障りのないものを最終的に書き入れるのである。
 そんな経験をお持ちの方、多いと思います。
 ここで少し、年齢・世代別の趣味について分析を試みよう。
 まず、年齢別であるが、スポーツ、特に野球やサッカーやバレーボールなど地域や企業内などで大人になっても簡単に楽しめるメジャーなものや、釣り・旅行などの家族で行うことの比較的簡単なものに関しては、子どもの頃からあまり変わらない事も多い。しかし、モータースポーツやゴルフ、マリンスポーツなどの比較的お金のかかるものに関しては、大抵は高校卒業後に始めるものである。また、盆栽や俳句などの伝統文化に関連するようなものは、ある程度年齢が高くなってから始める人が多い。
 次に世代別であるが、現在65歳を越えている世代は、戦前・戦時中に青春を過ごし、昔ながらの趣味、あるいは無趣味である人が多く、40代から65歳までの世代は戦後の復興期、そして高度経済成長期に青春を捧げたあげく、無趣味という人が多い。また、種類はそんなに多くない。20代・30代の人々は、ある程度趣味の幅が広がり、多趣味の人も増えてくる。それ以下の年齢については、世代を問わず、前述の通り趣味は確立しにくい。
 趣味についてよく報道されるのは、趣味を持たない人が退職後に人生のハリを失い、ボケや自殺の原因となっていることなどであるが、これは現在の退職世代に関してであり、今後20年間の間に大きく様変わりをするであろう。あまり問題視するものでもない。それだけでなく、趣味に関しては日本社会はマイナス点や大きな問題点を抱えているわけではないので、むしろ、日本が本当の意味で豊かな国に脱皮してゆくために、もっともっと趣味を楽しむ土壌づくりを推進してゆくべきだということであろう。
 そのためには、スウェーデンなどで盛んに行われている、趣味のサークルの情報公開やメンバー募集の活性化である。一部のメジャーな趣味に限られている、地域でのつながりや職種の違う人たちとの交流が、もっと多くの趣味に関して行われるようになることが重要であろう。また、それらの情報を集積する機関の設立や、情報誌なども発行されるとよいだろう。そうすれば、本当に自分が興味あることがなかなか始められないということがかなり減るはずであるし、何より自分にとっては一番楽しい趣味であるはずのものが、存在自体があまり知られていないために、出会わずじまいということが大幅に減る。趣味を楽しむことは人生を楽しむことであり、大抵の人にとって大きなプラスになるハズなのである。
 もちろん、個々人が努力して趣味を見つけだすことは当然必要である。自分の身近な人間に流されることなく、人生の幅と奥行きを拡げて欲しい。
 そして、履歴書や自己紹介で堂々と書けたり言えたりすることは、それも一つの快楽なのである。
 


食事 2006/3
 しあわせに生きていくためには健康でなくてはならない。当然である。
 学生時代はあまり気にしていなかったが、社会人になってからは朝早く起きなくてはならないとか、一日を元気に乗りきらなくてはならないとか、健康に気を使わなければいけない状況が否応無しに襲いかかってきた。
 1999年頃、金欠と相まって、私の中での第一次自炊ブームが巻き起こった。
 当時の夕飯はまず米を炊き、米を食べるためのメインディッシュをどうするか?ということが大きな課題であった。ゆえに、チャーハン(キムチチャーハンが多かった)、レトルトカレー等が多く、それ以上の副菜まで手がまわらない状況であった。朝は惣菜パンが多かった。
 様々な状況の変化を経て、2004年頃からは、第二次自炊ブームとなった。
 今回の発端はビールと伴に食べると美味しい「トウフサラダ」を自分で作ろうと試行錯誤したことから始まり、次に野菜ばかりの中華スープを作ることが続いた。中華スープは大ヒットで、これさえあれば他に何も必要ないと感じられるほど満足できた。
 そこで重要な事実に気づいたのだ。
「米は要らない。」
 それからは昔から好きだった副菜類を次々に作り始めた。きんぴらごぼう、切り干し大根の煮物、ひじきの炒め煮等である。これらの副菜は一回作ると4〜5日は持つ。作る手間暇はそんなに負担ではないのだ。それに納豆を加えた。納豆は卵の黄身と刻みネギをたっぷり入れて「主食」扱いとした。そのうちメカブも加わった。これはきざみのりを加えると美味しい。夏は中華スープはつらいので、野菜サラダにした。様々な野菜の組み合わせを試した。夕飯に米を腹いっぱい食べるとすぐ眠くなるし、その後に仕事をする気がなくなってしまう。米を食べないと腹いっぱいでもその後いろんなことができるのだ。これは素晴らしい。
 朝は5枚切り食パン2枚を焼き、一枚はマーガリンと板チョコで食べる。(板チョコアイデアは昔イスラエルで思いついたものを思い出した)もう一枚はスライスチーズとキュウリとボイルしたソーセージを挟んで食べる。野菜ジュースとプレーンヨーグルト125g前後も食べれば相当満足できる。
 一年が過ぎ、筋トレの効果で筋肉は結構増えているはずだが、6kgくらい体重が減った。必要ないものがほとんど落ちたのだ。疲れも溜まらなくなってきたし、朝の目覚めも良くなったし、睡眠時間も減った。日中の元気も保てるし、体調も崩れない。もちろん毎朝快便である。
 やはり食事は大事である。
 ちなみに昼は適当に食べればいい。幕の内弁当やチキン南蛮弁当やうどんやカップラーメンをね。どうせ仕事にエネルギーを使うのだから。
 



結婚 2002
 結婚って必ずしも「愛」と関係のあるものではないことは、はっきり言えますよね。少なくとも日本という国においては。
 両者の合意と法的手続き(同性間の結婚や別姓等の問題については、私自身の主張は特にありませんから。強いて言うなら可能なのが当たり前でしょっていうくらい)については別に言うことなんてないけれど、問題は社会的な対応でしょう。
 ま、とりあえずは順を追って書いていきます。
■私の結婚観■
 結婚すると新たな戸籍が作成されることを考えれば、法的には「結婚していない=独立していない」と言える。経済的にも住むところも独立していたとしても、戸籍上○○○○の子なんて書かれてるんじゃ、半人前な気分になってしまいます。かなり単純な解答ではあるけれど、この理由で結婚は一人前の大人になるためには避けては通れないものだと考えます。そう、「愛」だの「幸せな」「家庭」だのと言う前に、私にとっては生きていくならばしなくてはならない絶対条件なのです。人によってはそんな理由には目をつぶり、「自由」で「束縛されない」生き方を楽しんでいたりもします。結婚できないのではなく、結婚しない生き方。それをはっきりと主張している人は尊敬しますし、何も言うことはないんですが、私自身は結婚しなきゃイヤです。
■結婚式■
 結婚式というものは、結婚するということを誓う儀式なわけで、本来ならば二人で誓い合えばそれでいいんですが、大抵の場合は「誰か他人」に誓うんですよね。私としては他人に対して「儀式」として公言したくはないのですが、友人・家族等の親しい間柄の人々に対してぐらいなら良しとします。間違っても釈迦やキリストやアッラーや正体不明の神道の神などに誓うことはしません。
 しかしながら、結婚式は「祝福の儀式(セレモニー)」という側面があることを無視するわけにはいきません。結婚相手の感情的な夢やあこがれを一刀両断にすることは、その他の事柄と違い、なかなか出来るものではないんですよね。ちなみに、その他の人々(家族等)の意向は論理的に抑えますが。結婚は二人の意志で行うものであり、「家」と「家」の間で取り交わされる契約ではありませんから、金銭面の援助等の「してあげたい気持ち」は否定しませんが、その他の「意見」は、私と違う場合、絶対に受け入れるわけにはいきません。
 


家族 1999
 家族とは一体何なのか?
 これは家族問題を専門に扱っている人々にとっても、はっきりと定義できないもの(らしい)。
 一般的には、家族とは人間が「社会の中で」生きていく上での最小の、そして基本となるユニットであると定義できる。
 基本となるユニットである。
 大抵の人間は生まれてから少なくとも十数年は、「自分が望んで作り出したわけではない」家族の中で生きていくのである。
 「One was born.」
 人は望んで生まれてきたわけではない。そして、望んだわけではない親の作り出した家族の中で成長するのである。もちろん学校やその他あらゆる家族以外の場所において、人は様々なことを学んでいくが、その根底には生まれ育った家族の中で培われた絶対普遍の「何か」が存在している。ゆえに、自分が家族を作り上げるとき、特に子どもを生み育てるときには、その子の一生を左右する立場に自分が置かれていることを強く意識しなければならないのである。
 人間には多様な欲望が存在するが、自分がこの世に生きていていいんだという「承認」の欲望を持たない人間はいない。大きなものだと国民のために国を良い方向へ動かしてゆく大統領などの立場が考えられるが、最も小さなものは家族に必要とされる存在であるという立場である。例えば、妻が「主婦」という立場に立ち、夫から生活力を奪うのは、夫を「私なしでは生きてゆけない」という状態に陥れ、夫に必要とされていると感じることにより、「承認」の欲望を満たしているのである。しかし夫の方では働いて収入を得ることにより、やはり妻から必要とされていると感じる。この状態を「共依存」と呼ぶ。
 この共依存から、家族の様々な問題も分析可能である。例えば自分を極端に低く評価している人間は、誰かの世話を焼き、その人が自分なしではやっていけないようにし、頼らせて離れられないようにする。こうすることにより、社会の中での大きな「承認」は得られなくても、その相手から「承認」を得ることが出来るわけであるから、生きてゆけるのである。この二人が男女であれば結婚し、家族を作り上げるだろう。自らが無理矢理作り上げた自分を頼ってくれる人が存在するだけで、本当に家族を作り、子どもを生み育てていいのだろうか?
 実際にはこういった人々は多いし、夫婦や親子の深刻な問題も多くはこの中から生まれている。
 「社会的な承認」を得るための方法を身につけ、実際に「承認」を得、家族を作り上げることの社会に対する責任を自覚する。これらをきちんと行うことが大切である。
 


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